ADHD(LD混合型)の私について
ADHD(LD混合型)の私について
私がADHD(LD混合型)であると知ったのは小学五年生の時。
テストでもよくミスをし、集中力が足りないとか、集団行動ができないとか、小学校時代によく先生が言ってたらしいけど、そんなの知るのはもっと後。
よく忘れものして怒られたし、集団行動できずに怒られたし、言うこと聞かなくて怒られた。約束守れなくて友達とケンカしたし、「ごめん」が言えなくてケンカした。
でも、よく考えたら"友達"なんていなかった。小学一年生の時から"おかしい"ってからかわれた。でも気づいたら、"おかしい"は"変"とか"バカ"とか"アホ"っていう悪口に変わって、もっと大きくなると"クズ"とか"キモイ"とか"死ね"って言われるようになって、ランドセルに「死ね」って書かれたり、うわばきや体操着を隠されて、教科書は破られて、給食着は切られた。いじめられっ子だった。
自分が一番よく分かってる。
「どうして出来ないの?」「どうして忘れちゃうの?」ってたくさん考えた。
でも、当時の私に答えは出せなかった。答えを教えてくれる人もいなかった。
小学五年生になったある日、母が私に話をはじめた。
私が、ADHDであること、LDであることを。私についた名前は"ショウガイシャ"だった。
よくわからなかった。あのときは、何のことだかさっぱりわからなかった。
でも、ひとつわかったのは"それのせい"でいじめられてたし、勉強ができなかったし、忘れちゃうんだって。私のせいじゃなくて、ショウガイのせいだったんだって。
小学校を卒業し、中学生になった私はショウガイと向き合うために調べた。
図書室で本を読みあさり、PC室でパソコンを使って調べ、図書館で本を探し、の日々を送った。ニ週間かけて作ったノートがある。そのノートには、ショウガイのこと、自分のこと、生きていくためのコツ。すべてが書かれている。そのノートは、今どこにしまってあるか分からない。その日はじめて私は、障害者になった。
ADHDとは注意欠陥多動性障害のこと。注意力がなく、忘れ物が多く、周囲の空気を読めない人もいる。中には、多動性という落ち着きのない面が出る人もいる。
LDとは学習障害のこと。勉強ができない。文字や文が読めない人、計算が全くできない人、暗記ができない人、いろんな人がいる。
私はこの障害に、十三年間悩まされてきた。でも、ある人に出会ってから変わった。
中学ニ年の時に、ある曲と再開した。その曲を作ったバンドは、今なお人気を集めているSEKAI NO OWARI。ボーカルの深瀬との出会いだった。彼もADHDである。学生時代の話を雑誌の取材で答えたり、音楽番組で話したりした。彼の過去といまの私がよく重なった。
彼が「僕、ADHDなんです。」と話す姿を見て、それって言っても良いんだって気づいた。
私は、人に話せば楽になると思ったけど、実際は少し違った。
人に言うことが、こんなにも苦しいなんて知らなかった。もっとカンタンだと思ってた。
ある日、一人の人に伝えることができた。
その人は英語の先生だった。先生は「俺はこの先どんな風にしたら、松田が過ごしやすくなるの?」と聞いてくれた。その人のためにノートを渡した。あのノートを。
あのノートを読んでくれた先生は、授業スタイルを変えなかった。でも"放課後授業"をしてくれるようになった。その日にやった授業の復習として、時間を作ってくれた。苦手だった英単語の暗記も、つきっきりで一緒に覚えてくれた。何度も何度も発音して、頭に入れた。リスニングが得意になった。単語も文法も、何度だって教えてくれた。どんなに忙しくても、復習の時間はあった。昼休みも一緒にテニスをしながら単語テストをした。楽しかった。生まれて初めて、勉強を楽しいと思った。
高校入試の勉強も助けてくれた。
「お前の頑張りは、誰よりもすごい。だから、内申点がお前にはある。あとは当日どれくらいできるかだ。」って言ってくれた。
担任の先生じゃないのに、すごく一生懸命に教えてくれた。
国語も数学も理科も社会も英語も、ぜんっぜん出来ないのに、先生は教えてくれた。
英語の先生なのに、国語と社会を教えてくれた。理科の先生が、理科と数学を教えてくれるようになった。仲の良い先生がみんな、暗記トレーニングに付き合ってくれた。暗記テストもしてくれた。罰ゲームがあっても、ペナルティがあっても頑張れた。あの先生が声をかけ、みんなが助けてくれたから。いじめられっ子の中学時代も、先生たちとの勉強と、必死になれた部活のおかげで楽しかった。
入試でい良い点取ってあげられなかったけど、定期テストで良い点取れなかったけど、申し訳ない気持ちでいっぱいで涙を流しながら謝ったけど、感謝してるし、楽しかった。
あの日はじめて、頑張ることを知った。
高校生になれた私は、新たな出会いをする。とっても頭の良い、すごい数学の先生に出会う。
超不安でいっぱいの数学の授業に、その人はいた。
無愛想で見た目の怖い先生。そんな先生が私に声をかけてきた。
「はじめまして。Aです。よろしく。」とどうして私にだけ自己紹介したのかわからなかった。「数学は、苦手でしょ。」と続けられ「はい。」と答えた。「なんでわかったんですか?」と聞くと「そんな風に見えた。僕は、数学嫌いを治す人ですから。」と。
超意味不明。ただの変人だと思った。なのにA先生はしつこかった。
「今日は出来た?」って毎日聞いてくる。無視した。でもしつこかった。
「松田。」あれ?"キョウハデキタ?"じゃない。「なんですか。」無愛想に言った。
「今日は返事するんだ。数学嫌い?」もう意味わかんない。
「私、数学嫌いなの、出来ないから。何回やってもわからないの。もう嫌い。先生も。」つい。つい言っちゃって。「そっか。じゃぁ、嫌いじゃなくそう。得意になれなんて言わなから。」少し悲しそうな顔をして言っていた。
でも、なんでこの人こんなにポジティブなの?
流れに乗せられて、思わずうんってうなずいた。
それからは毎日毎日、授業が終わると課題を出された。復習プリントだった。
まるで、中学時代に戻ったみたいだった。高校でもこうして助けてくれる人がいるんだと嬉しさがこみ上げた。私は、こんな大人になりたいと思うようになった。
そんなA先生に、あのノートを渡した。「読んでほしい。」と。放課後、時間を作って読んでくれた。読み終わったあと「そんなことがあったのか。俺はお前に何かしてやりたい。よく調べ、自分と向き合おうとしたお前に、俺は何かしてやらなきゃいけないな。色々考えてみるよ。」そう言って、A先生もADHDとLDについて調べはじめた。
そして、私専用の問題集を作ってくれた。その問題集は私にとって最強だった。そのおかげで、数学が嫌いじゃなくなった。A先生と仲の良いI先生は、国語を教えてくれた。
一年生の間は楽しかった。
二年生になってI先生は移動した。新しくきたM先生とH先生は、社会と数学の先生だった。
この二人もA先生と仲が良かった。社会科で大苦戦していた私は、M先生を頼った。
でも点数は上がらなかった。申し訳なかった。必死で食らいついた三学期期末のテスト。四十点アップさせた私は、真っ先にM先生に伝えた。頑張ればできる。あの日私は、そのことを知った。
高三の四月。A先生が移動した。信じられなかった。恩師はこうしていなくなるのだと知った。悲しみに暮れ、やる気を失った。受験生にもなれない。ただ一日がゆっくり過ぎていった。ある日、H先生が言った。「A先生が移動して悲しいのはわかる。俺もそうだから。でも、結果が変わらないなら、今を変えようよ。未来でまた会おうよ。」と。なんてカッコイイこと言ってくれやがるなんて思った。
悲しみを忘れようとした。やる気を取り戻した。また、頑張る日々がはじまった。
またここで私は新たな出会いをする。
Y先生とW先生に出会った。英語と体育の先生。
一年生の時から"自習スペース"で勉強していた私にY先生は声をかけてきた。
「はじめまして。Yです。よく、ここで勉強してるよね。」と。私は「はい。そうです。あ、松田です。松田希海。」と返事をした。「松田さんね。俺、一年の先生だけど、松田さんは青学年だから…」「三年です。」「あぁ、そうか。ありがとう。俺でよかったら、なんでも相談して。そこのドア開けたら、前から三番目の席にいるから。」とあっという間に仲良くなった。私はこの時「この人なら大丈夫。」と分かった。何故だろう。
W先生は、授業を持ってもらっている。学校一イケメンって言われてる。たしかにって思ったことはあるけど。「松田は、スポーツ得意そうだね。」そう声をかけてきた先生の周りには、いっぱい女子がいた。「なんでコイツに?」みたいな目をして見られた。怖かった。
「まぁ、得意ですよ。全般。」と答えた。「全般!?サッカーも?バレーも?」と聞き返してきた。
「はい、一応。あ、ダンスは無理。野球とソフトはやったことないんでわからないけど…」
そんな会話がきっかけで仲良くなった。面白くなかった体育の授業に色がついた。
今までは、制限されてた活動に制限がなくなった。すると、周りがよく見えるようになって、全力でやらなくなった。先生の手伝いを今までたくさんやるようになった。おかげで"五"をもらった。体育が今までよりずっとずっとずーっと大好きになった。
英語のY先生は、優しかった。
廊下で会うと話しかけてくれて、昼休みはサッカーをしてくれる日もあった。
放課後は、めちゃめちゃ厳しいことを言われた。でも、本当のことだし、当たり前のことだった。授業中、周りがうるさいこと、何かへの焦りや不安、英語がわからないこと、、私に対する全てのことを話した。
先生は一つ一つ、話を解決しようとしてくれた。
「分からないなら、まず調べる。それから俺の所に来なさい。」
「英単語は毎日やりなさい。」
「泣くな。」
「自力でやってからじゃなきゃ助けない。お前のためにならないから。」
「松田はまだ七十パーセント。お前自身に甘い。甘えすぎ。自分がこの環境を作ってる。自分で自分の首、締めてる。百パーセントの日ってある?何回ある?毎日だって言えなきゃダメなんだよ。三、四ヶ月。たったそれだけでお前の人生変わるんだよ。嫌でもやれ。」
たくさん言われてきた。それでもY先生の所へ行ってたのは、全てが本当のことだったから。正しかったから。厳しく言った後も、怒った後も、今までと同じように話した。それはそれ、という線引きだった。だから頑張れている。
高校三年の十一月を迎えた今、こんなことを書いている暇はない。
でも、これを書かなきゃいけなかった。唯一、自分と向き合える時間だから。
A先生のような大人になりたい。そう思ったあの日から、私は教師を目指しています。
あの時、勉強を頑張っていなかったら、今の高校に入学していない。
あの時、A先生に出会っていなかったら、教師を目指していない。
あの時、A先生が移動しなかったら、私は強くなれてない。
あの時、Y先生に出会わなかったら、正しいことを知らないままだった。
全てのことがキセキで、ADHD(LD混合型)として生まれてこなかったら、今の私はいない。
この障害と向き合うことで、理解し、付き合って、自分をコントロールできるようになった。
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