記憶をなくしたいと願った男

秒針が絶え間なく、一定のリズムで時を刻んでいる。
グラスに注いであるお酒には丸い氷が入っていたはずだが、その氷も数時間前に水となってお酒を薄めた。
水で薄まったお酒の入っているグラスを傾けて、勢いよく喉に流し込んだ。
まるで、全て忘れ去りたいと願う人のように、記憶をなくしてしまいたいと願うように。
水で薄まったお酒を飲んでいるのは記憶をなくしたいと願う青年だった。
その青年はたった24年間の人生の中で、記憶をなくしたいと思うようになってしまった。
青年は学生時代、最愛の人を失った。その後、大切な人を失った。
自暴自棄になり、学業にのめり込むようになった。
しかし、学業にのめり込むなか、壁にぶち当たった。
青年はLDという発達障害を抱えていることを告げられた。
たしかに青年は、国語や社会の暗記的要素を含む科目は得意だった。
しかし、数学や理科などの数字を扱う科目になると途端にできなくなってしまう。
数字が何を意味しているのかわからず、四則演算ですらままならなかった。
LDであることを告げられたのは中学生の時だった。
中学を卒業して、かろうじて入れた偏差値の低い高校に入学した。
しかし、理系科目の授業にはついていけず、学校を辞めたいと思うようになった。
青年の苦しさを知る者はいない。
誰も理解できないのだ。
それでも青年は諦めず、理系科目に力を入れて取り組んだ。
しかし能力は一切上がらず、ついに進級が危うくなった。
そんなとき一生懸命寄り添って教えてくれる教師に出会った。
その教師は、他のどの教師よりも丁寧にゆっくり、理解できるようになるまで何度も説明した。
手を変え品を変え、青年が理解できるように、少しでも楽しいと思えるように頑張った。
そんな教師は、数ヶ月間だけ出勤していた非常勤講師だったせいで、その教師は3ヶ月足らずで学校を去った。
それ以来、誰も教えてくれなくなった。
青年は高校を中退した。
何度やっても理解できない数字の仕組みにうんざりした。
どうして自分が、なんでできないのか必死で悩むようになった。
どんなに悩んでも答えは出ないままだった。
ある時青年は小説を書くようになった。
「永遠に答えの出ない問い」という題名の小説を書いた。
ー考えたことがあるか。永遠に答えの出ない問いに巡り合うかもしれないことを。
青年の書いた小説の一説にはそう綴られていた。
ー悲しいのは今だけ。そう思ってきたけど、やはり違うらしい。
青年の綴る一文字一文字が読者の心に刺さった。
しかし、世間に広まることはなかった。
気がつくと数年の月日が流れて、24歳になっていた。
新宿にあるBARでウイスキーを呑んでいた。
これで何杯目だろうか。
バーテンダーの男性は、少し心配していたがお客の要望通りお酒を提供し続けた。
数時間呑み続け、ふと青年の動きが止まった。
「ここまま、記憶をなくしてしまいたいなぁ。」
青年がそのBARで初めて発した言葉だった。
独り言のように呟いた青年の目は冷たく、生きていない目だった。
青年は結露してテーブルにできた水滴の輪っかを眺めていた。
グラスの中には丸い氷が浮いている。
少しグラスを動かせばカランと音を立てた。
そのまま青年は眠りについてしまった。
何時間経過しただろうか。
周囲にいた客はもういない。
目を覚ました青年は、キョロキョロと周りを見回した後、バーテンダーに声をかけた。
「もう、閉店ですか。」
寝起きの口調で話した青年に対してバーテンダーは静かに答えた。
「いえ、まだ営業時間です。閉店まであと 2時間ってところでしょうか。気まぐれなもんで。」と。
青年は視界に入ったグラスを見つめた。
グラスに入っていたはずの丸い氷はウイスキーに溶けて無くなっていた。
グラスの結露もいつのまにか消えていた。
水で薄まったお酒の入っているグラスを傾けて、勢いよく喉に流し込んだ。
「もっと強いの。あります?」
息を吐きながら青年はバーテンダーに尋ねた。
「ありますけど。お客さん、相当酔ってますよね。」
作業を止めた冷静なバーテンダーはそういうと、再び手を動かした。
「えぇ、まぁ。大丈夫です。」
青年は、そう言ってお願いした。
「かしこまりました。」と言いながら青年に背を向けたバーテンダーは、店内で最も度数の高いテキーラをグラスに入れて差し出した。
受け取った青年はゆっくりとグラスを傾け喉をつたわせた。
それほど高さのないグラスに入ったテキーラを一気に飲み干すと青年は望んだ。
「記憶なんて、全部なくなってしまえばいいのに。」と。
すると青年はぐったりとテーブルにもたれかかったまま少しずつ記憶を失っていった。

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