ヒミツノハナシ(22)
2018年3月。
とうとう年度末に入った。
合格者説明会も無事に終え数日が過ぎ、人事異動が決まった。
ただ、離退任式に出れないことが同時に決まってしまった。
その日は新婚旅行でイタリアにいた。
最後に松田の姿を見れないままで過ごすのは嫌とは思っていた。
離退任式で、松田の顔は見れない。
そう思ったが、松田に会えないまま、イタリアへの飛行機に乗ってしまった。
窓から見える海は綺麗だったが、どうしても松田の顔が頭から離れなかった。
果たして楽しかったのだろうか。
ワインの味も料理の香りや味の記憶があまり鮮明には残っていない。
そして、勤務先へ最後の出勤。もう二度と会えないかもしれない松田の顔を思い浮かべながら3月30日を迎えた。
いつも通りの朝を迎えたはずだったが、自分自身の体は“いつも通り”とは思っていないようだ。
体の中に“後悔”という文字が、ゆっくりと焼印のように書かれていくこの胸の痛い感覚が、車のハンドルを握る手を震わせた。
どうしてあの時最後の出勤日を言ってあげなかったんだろうか。
後悔が後悔を呼び、苦しさを増す。
最後に出勤するこの学校にいつもより少し早く着いた。
重い足取りは、職員室に近づくにつれて、鉛のように重くなった。
重くなりすぎたこの足に、動けと命じる脳と、命令通りに動こうとはしない筋肉。
最後もまともに仕事させてくれと願うがその願いも儚く消えた。
出勤してから2時間後くらいだったろうか。
処分しなくてはならない書類の類を、印刷室のシュレッダーで捨てた。
まるで、過去の自分の間違いをわからないように捨てるみたいに。
そんな“証拠隠滅”みたいなことをしてる時、聞き覚えのある声がシュレッダーの音に混ざって聞こえて来た。
「相沢先生っていないんですか?」
まさかと思い印刷室から顔を出すと松田の姿があった。
声をかけようと思ったが、声が出なかった。自分が自分に尋ねた。
「お前は松田にどんな顔で会うんだ?なんて声をかけるんだ?お前のその浅はかな考えと松田に対する気持ちが招いた結果だろうが。」と。
確かにそうだ。松田の気持ちをしっかり考えないからこういうことになったんだ。自ら声をかけるのはやめよう。松田が声をかけてくるまでは黙っていよう。そう思っていた。
「あ、先生いた!!」
松田の最後の声が聞こえた。
「おう、来たのか。」無愛想な答えだと自分でわかった。
「相変わらずだね先生。そうやってなんにもいわずに…異動なんて。なにもいわずに…い…異動なんて…私が許す…わけな…ないじゃん。」背中を向ける私にどんな気持ちで声を出して訴え、途中から泣き出して、言葉が止まったんだろうか。
「ごめんな。俺も移動する気なかったんだよ。」
背中を向けて言う私の言葉は薄っぺらいものだったろう。
泣き出した松田をなだめるように、松田に歩み寄り頭を撫でた。
「ごめん。本当に…ごめん。」
自分の声まで震えだした。
泣いてるんだろうか。わからない。
「はい。これ、書いた。」
松田は私に1通の手紙を渡してきた。
「あ…いざ…わ…先生…。」
松田が私の名前を呼んだ。
「ん?」と返事をした。
それからどれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
松田が次の言葉をなかなか発さない。
いや、発さないと言うよりは発せないのだろう。
松田にしてはいつもよりも長く泣いている。
「先生に…会えて…よかった。」
そう呟く松田は涙を流したままだった。
「ありがとう。」そう言った松田は笑った。
「ごめんな。ちゃんといってやれなくて。離退任式も出れなくて。」頭を撫でながら言った。
松田はしばらく自習スペースで泣いていた。
今日くらいは、自習スペースで泣いててもいいだろう。
あとでゆっくり手紙を読もう。
そう思ったが、今読むべきだと本能で感じ取ったような気がした。
ゆっくり封筒を開け、手紙を引っ張り出した。
松田らしい仕掛けが施された手紙。
手紙には“夢を与えてくれた先生へ“と書かれていた。
春、桜のピンクが彩り青く澄んだ空の下で、私は先生に出会いました。
高校に入学してすぐに始まった授業。
ついていけず、一人不安になり苦しい思いをしていたのもつい最近のことのように感じます。
一番嫌いで、苦手で、出来ればやりたくなかった数学。
その先入観、全てを変えたのが先生。
気づいていないかもしれないですが、私に夢を与えてくれたのも先生です。
一つ一つ丁寧に、解らないところを解るようになるまで教えてくれた先生に憧れて、先生のような人になると決意しました。
私の決意を示した時、先生は「俺を越えてくれなきゃ、困るなぁ。」と笑いながら言いました。
私は先生を越えます。
私は将来、先生を越える数学教師になります。
私に"夢"を与えてくれた先生に心から感謝します。
先生、ありがとう。
この手紙、先生に対する気持ちを全部書ききれた自分史上最高の手紙だと思います。
正直なところ、先生も察しがついてるかもしれませんが、異動して欲しくないです。
おかげで、涙を流しながらこの手紙を書く羽目になりました。
本当なら卒業するときに、笑いながら書いて笑顔で渡すはずだったのに。
でもこれをきっかけに、異動を拒まれ、悲しまれ、泣かれる教師になるって将来が確実に見えた気がします。
異動先でも解りやすい授業してあげてください。
頑張りすぎないように頑張ってください。
松田の気持ちが書かれた手紙を受け取った私の気持ちは一体どんな気持ちなのだろうか。
自分自身でもわからなくなるくらい、気持ちの糸が絡まって解けなくなっていたり、結ばっていたり。
3月30日。
後悔を背負ったまま、この学校に背を向けた。
END
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